2008年05月05日
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下高井戸分水の向陽橋合流説・永泉寺と玉川上水の関わり・下高井戸橋と永泉寺橋は同じか?

Written By: 川俣 晶連絡先

 東京都水道歴史館の閲覧室に行って、懸案事項は解決できず、宿題を増やして帰ってきました。以下、それについて書きます。

懸案事項 §

 前回東京都水道歴史館の閲覧室に行ったとき、「玉川上水の歴史と現況 東京都環境保全局 昭和60年3月31日発行」で下高井戸分水の分水点と神田川への合流点の位置を確認できました。

 しかし、「図解・武蔵野の水路 -玉川上水とその分水路の造形を明かす- 渡部一二 東海大学出版会 2004年8月5日 第1版 第1刷」では、神田川への合流点を向陽橋としていて食い違っています。

 当初、この書籍の誤りだと思っていましたが、よく考えてみると「玉川上水の歴史と現況」の地図は下高井戸分水の途中の部分を掲載していません。そこから向陽橋に向かうルートがあってもおかしくありません。ということは、向陽橋「も」神田川への合流点という可能性が否定できません。

 それを確認するために、再度「玉川上水の歴史と現況」を閲覧したいと思っていました。これには、分水の部分だけ別のページに地図が掲載されているケースがあったので、下高井戸分水も同様のページがあるかもしれないと思ったわけです。

 しかし、結論としてはそのようなページは見つかりませんでした。つまり、向陽橋「も」」神田川への合流点という可能性を否定する根拠は得られませんでした。

向陽橋合流説の根拠 §

 向陽橋合流説は「図解・武蔵野の水路」だけのものかと思ったら違いました。

 これより5年前の以下の書籍も、向陽橋で神田川に合流すると記していました。

  • すぎなみの水紋様 玉川上水 恩田政行 青山第一出版 1999年10月1日 第1刷発行

 この書籍では、向陽橋である根拠が明記されています。

「昭和35年(1960)頃までは、玉川上水に架かる旭橋(下高井戸4-2)の上流約100mの左岸(同5-3)より取水して、この付近一帯の田3町歩(1町歩=99.17a)を灌漑し、向陽橋(同3-40)たもとで神田川に落ちていた(原文)」と調査記録にある。

 ところが、またまた間抜けな話で、この「調査記録」が何であるかの確認をうっかり忘れてきました。いや、正確には現地ではそれを確認したのですが、そのページをメモって来るのを忘れてしまいました (大汗。

 ちなみに、この本は(東京都水道歴史館には)1冊しかないので貸し出しできないそうです。この典拠を確認するのは宿題です。(とか言っていると、いつまでも毎度毎度東京都水道歴史館に通うことになりそう)。

永泉寺と玉川上水の関わり §

 過去にも見たことがある「玉川上水 橋と碑と 蓑田倜(たかし) クリオ 一九九三年十一月一五日発行」もあったので、何気なく見ていると……。

 下高井戸橋の説明のところで、全く無関係の別件のヒントが目に飛び込んできました。永泉寺はとっくに無いのに「永泉寺緑地」という名前を付ける謎に対するヒントです。

 玉川兄弟が上水を高井戸付近まで掘り進んだとき、資金が底をつき、兄弟は日夜資金の調達に奔走した。ある日、下高井戸の現場で働く人夫が、堀かけの新堀の中から白色の玉石を見つけ、庄右衛門のところへ届けた。高井戸の新堀から出た玉石は、江戸中の評判になり、以後資金の調達もはかどり、四谷大木戸までの開削に成功した。

 この玉石はケガや眼病に霊験があらたかだったので、庄右衛門は日頃進行する薬師如来のおかげであるとして薬師堂を建立、玉石を納めて「玉石薬師」と名づけた。享保四年には薬師堂を守るために「永泉寺」が建てられた。(以下略)

 以上の記述が過去の事実であるかは分かりません。しかし、物事のネーミングは事実であるかよりも、人々がそれを信じるかで決まります。もし、このような逸話が事実であると信じられていたとすれば、永泉寺とは玉川上水とは切っても切れない縁が存在することになります。それゆえに、玉川上水を暗渠化した後に緑地に「永泉寺緑地」と名付けることも不自然では無くなります。

 しかし、これは1つの「あり得る解釈についての仮説」であって、結論が出たとはまだ言い難い水準です。もうちょっと深めていかないと確定的なことは言えません。というか、現在は追求していないテーマなので、当分は店晒しのままかも (汗。

下高井戸橋と永泉寺橋は同じか? §

 (2008/05/05 20:31頃、誤認があったのでこの項目全文差し替え)

 「玉川上水 橋と碑と」を見ていて「ええっ」と思ったのは、永泉寺橋が下高井戸橋に改められたという記述です。

 太平洋戦争頃から玉川上水第三公園ができるまでの期間(たぶん)、地図上では2つの橋が描かれています。なので、別個の橋だと思っていました。当初は永泉寺橋だけがありましたが、昭和初期に永福通りのクランク状の道路が真っ直ぐに改められたときに、永泉寺橋のすぐ東側にもう1つの橋が作られたように見えます。直進経路のために作られた橋です。これが下高井戸橋と呼ばれる橋だと思います。しかし、それが出来た後も古い方の橋は残されていたように見えます。いくつもの地図や航空写真で2つの橋が併存している状況を確認できます。

 しかし、公式の書類上は「下高井戸橋は永泉寺橋の後継の橋として作られたものであり、同じ橋が改称したもの」という可能性を否定する根拠もまだ調べていません。つまり、否定できません。

 ちなみに前回行ったときに見た「玉川上水路関係分水調査報告 昭和37年4月 東京都水道局」の地図に、はっきりと「永泉橋」と「下高井戸橋」が別個の橋として記載されていたのでした。しかし、「永泉橋」であって「永泉寺橋」ではないのが悩ましいところ。名前の表記のゆれなのか、別個の橋なのか、判断できません。ちなみに、上水記や比較的古いいくつかの地図の表記も「永泉寺橋」です。

 これも宿題です。当分、手を付けられませんが (汗。

買えない資料 §

 「すぎなみの水紋様 玉川上水」や「玉川上水 橋と碑と」は基礎資料であり、金を出して買っても良いと思います。しかし、古書サイトを検索しても出てきません。あてもなく神保町を歩き回るのも無謀すぎるし、難しいですね。

感想 §

 いよいよ歴史ミーハー趣味も修羅の道に入ってきたようで (笑。

 掘れば掘るほど新しい資料が出てきてきりがありません。

 下高井戸周辺、あるいは玉川上水下高井戸村分水という比較的小さな範囲に限定しているから何とか成立していますが、もっと手を広げていたらあっさり破綻しているところです。

下高井戸周辺史雑記